Nov 14, 2010

コンピュータユーザー必須のデータ復旧の準備

コンピュータユーザーは必須だとしまっても全く過言ではないことがデータ復旧の準備ですね。これを怠ると、後々非常に後悔することになります。毎日の使用するコンピュータで、いつかは壊れるものですよね。その時後悔しないためにも、データ復旧の準備が必要ですね。むしろ必須であることは間違いありません。が重要です。
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 山元町は19日、震災復興計画策定のため有識者に意見を求める「震災復興有識者会議」と、住民代表から意見を聴く「震災復興会議」の初会合を町立坂元中で開いた。今後、有識者会議を2回程度、震災復興会議を6回ほど開催。年内に復興計画最終案を決定し、議会に提案する。
 有識者会議では農業、建築、医療、都市計画などの専門家5人と斎藤俊夫町長が意見交換。有識者は「住民がどのような暮らしを望んでいるかなどニーズへの対応が重要」などと、それぞれの立場から意見を述べた。
 有識者会議は公開され、町民ら約120人が熱心に耳を傾けた。住民代表10人が参加した復興会議は、自由な意見を述べてもらうため非公開で開かれた。【豊田英夫】

6月20日朝刊

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 那覇市議会(金城徹議長)は20日の本会議で、米軍普天間飛行場への垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ配備の即時撤回を求める決議、意見書を全会一致で可決した。決議は「オスプレイ配備は、県内への新基地建設計画の撤回と普天間飛行場の一刻も早い危険性の除去、早期返還を強く求める県民の総意を踏みにじるものであり、許されるものではない」としている。決議のあて先は米国大統領、在沖米海兵隊司令官など。意見書のあて先は首相、防衛相など。【琉球新報電子版】

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 被害が甚大だった閖上(ゆりあげ)は、歴史がある街だ。地域のコミュニティーを持続して閖上ならではの伝統、文化を引き継ぎつつ、将来につながる発展性のある街に復興していきたい。
 盛り土をして道路を造って防波堤の役割を持たせるなど、防災対策も講じていく。災害から逃げ回るばかりでは街作りはできない。どこかで折り合いをつける覚悟をしなければならないが、その最低限の条件は人命を守れる街かどうかだ。
 ただ、プランを策定しても、財源がなければ絵に描いた餅になる。最大の課題は財源だ。国や県は方針は打ち出しても財源を示してくれていない。浸水地域に建築制限をかけると言うならば、街作りの原資にするために国が土地を買い上げるべきだろう。
 がれきの撤去も進まない。県に作業を委託していたが進まず、名取市の業者でできる作業から取りかかっている。県は震災復興計画を策定しようとしているが、やるべきことの順番が逆ではないか。
 一つの方針にどれだけ現場の市が混乱するかも知ってほしい。(被災者を対象にした)民間賃貸住宅の家賃補助にしても、高速道路の無料化にしても、市は事前に方針を全く知らなかった。紙1枚で通知してきた方針に、どれだけ市の窓口が混乱したことか。方針を決める前に、現場が混乱しないか問い合わせてほしかった。市や町の窓口で現場研修でもして、現場の大変さを思い知った人が判断する立場に立った方がいいのではないか。
 震災発生直後、重機を投入して一人でも多くの命を救おうとしたが、燃料が枯渇していた。西日本には燃料があったのに。政府がその現状を把握しようともせず、放置した責任は重い。【聞き手・宇多川はるか】

6月20日朝刊

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 太平洋戦争当時、徴兵で全国の警察官が不足する中、少年警察官として採用された10代の若者たちがいた。当時の沖縄県警察部も米軍上陸直前の1945年2月から2回にわたり少年警察官計14人を採用。17歳で最年少だった上原徹さん(82)=浦添市=は、米軍の沖縄本島侵攻のさなか、那覇市真地の県庁・警察部壕配置となり、戦時下における県政末期の場面に立ち会った。14日、上原さんが壕を訪れ、当時の状況を初めて語った。
 上原さんは県立第一中学校卒業前の3月8日、練習所最後の86期生に採用。応募は両親の勧めだった。警察部は2月にすでに平時業務を停止し、戦時体制の警察警備隊を発足。訓練もままならないまま4月19日、警察同期24人のうち上原さん1人が県庁・警察部壕、残りは各署に配置された。
 艦砲弾が飛び交う中、食料や水の調達に従事した。「子どもは私一人で、周囲は島田叡(あきら)知事や荒井退造警察部長ら偉い人ばかりだ。壕の内外でずっと緊張しおびえていた」
 上原さんは島田知事に食事を時折持っていった。壕内は県職員に加え、知事を訪ねる旧日本軍幹部や沖縄新報の記者も出入りし、一般住民も避難していた。
 5月11日ごろ、糸満署に異動を告げられた。島田知事から「君は若いから後方に下がりなさい」と言われ、黒砂糖を餞別(せんべつ)に渡されたのが最後のやりとりとなった。
 戦火が一層激しくなった6月9日、警察警備隊は解散され、自由行動となった。「これで生き残れる」。戸惑いよりも職責の解放に安堵(あんど)した。南下する途中、一中鉄血勤皇隊の同級生、崎間福昌さんと偶然再会し行動を共にした。ところが25日、上原さんは山城近くの海岸で一人水浴びしていた際に捕虜となった。崎間さんの休息場所が攻撃されたが、安否は確認できなかった。集団自決と思われるさく裂音もあちこちで聞こえ始めた。
 崎間さんを救えなかった後悔から、戦争を語ることを避けてきた上原さん。昨年11月、終戦後初めて県庁・警察部壕を訪ねたことをきっかけに語り始めた。
 約66年ぶりに壕を訪れ、「こんなに暗く、わびしいところだったのか」と切なくなった。「住民を守るべき存在が本来の警察官だ。しかし、17歳の子どもにそれができるはずもなく、住民は軍隊に虐待され続けた。二度と戦争を起こしてはいけない」。上原さんは暗闇の奥を見つめ、手を合わせた。(島袋貞治)

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